2014年9月21日 (日)

開高健

予告しておりました開高健に関する原稿が、『Kotoba』秋号に掲載されております(「『ずばり東京』―肉体で描かれる都市」)。
どんな特集になるのだろうと思っていたら、ドナルド・キーンさん始めそうそうたる執筆陣で、なんかすごいことになっております。
興味のある方は是非手にとっていただければ。

ぼくについて言えば、すでに開高健の『ずばり東京』については『60年代のリアル』のなかで書いたことがあるわけで、何だよ、二番煎じかよと思われても仕方ないわけですが、でも今回は開高がどうやって「肉体」に向かい合うことになるのか、また「日本」に向かい合うことになるのか、といったあたりの起源にまで遡ってみました。
『リアル』のなかで書いたように、60年代という時代は「肉体」の叛乱する時代だったわけですけれど、でもその「肉体」への道程は個人によってそれぞれだったと思うんです。
そして、その道程によって60年代における「肉体」の捉え方も違っていた。
じゃあ、どう違っていたんだろう。
それを追ってみると、開高の東京論には実は「物への愛」と「荒地」が潜伏しているのではないか。
そんな議論をしています。

この特集は、それぞれの執筆者が開高の一冊を取り上げて書くかたちになっていて、『ずばり東京』は他に重松清さんと泉麻人さんが取り上げていらっしゃいます。
あの、まぁ言うまでもないことですが、自分は決して文芸評論なんかできる口ではないし、しているつもりもないし、当然ルポライターとしての見方もできないわけで、じゃあお前はどういう角度から書いているんだと言われると、いやー政治学なんですって言いたいけれど、でも社会的にはこれを政治学だとは思ってもらえないんだろうなーとか思って、なんだか凹んでみたり、凹んでいてもしょうがないので、とりあえず前を向いてみたり。

とりあえず、そんな毎日です。

2014年6月29日 (日)

比較政治学会に行く

本郷開催だったので、比較政治学会に行ってきた。
(ちなみに今日もあります→2014年度研究大会プログラム

自由企画「政治変動における非言語的表象」は、個人的にとても興味あるテーマだし、最後に半澤朝彦先生が実証政治学批判を展開されたりと、熱気のある刺激的な企画。

その中で、池内先生が革命表象の簒奪の話をしていた。
例えば、リビアの革命歌(?)のWe Will Not Surrender. We Win or We Die.という歌詞は(→コレ)は、カダフィ政権が支援して製作されたリビアの英雄Omar Al Mukhtarの映画に登場する有名なセリフだそうである。

で、竹内好が60年安保のとき、同じような話をしていたのを思い出したので、メモ。

「それはやっぱり伝統の中に、なにかそういうもの〔連帯のための手続きやルール〕をさぐらなければならないと思うんだ。だれかがそれを、出せばハッと気がつくようなものを、出してこなければいけないと思う。それは私の考えでは、やっぱり敵のシンボルを逆用するより手がないと思う。私は『世界』に書いた文章の末尾に、「各員一そう奮励努力せよ」というのを引用したんですがね。自分が命令するんじゃないんですよ、自分は命令されている者なんだ。それはわれわれの年代だと、「各員一そう奮励努力せよ」というのがいいんじゃないかと思う。そういう、なにかシンボル操作をやらなければいけないんだ。」
(丸山眞男・竹内好・開高健(討議)「擬似プログラムからの脱却」『中央公論』1960年7月号)

こういうことって意識的にやって効果あるのかな、とか思ったりするわけだが、
でも、きっと戦略的に行われることもあるのだろう…要検討。

いずれにせよ、現在は非言語的象徴のみならず、言語的表象の分析も今や周辺化されてるわけで、政治学における表象研究自体の復権が求められているのだろう。
そして、その試みは(先の竹内の発言にも反映されているような)50年代の政治学の復習から始めなきゃならないんじゃないだろうか、と思う。

付記:ちなみに、先の竹内好の発言を見つけたのは偶然じゃなく、かといって丸山眞男の全てを読んでいるからでもなく、単に今度のKotoba(秋号)の開高健特集に寄稿することになったので、そのための調べ物をしていただけです。編集者との打ち合わせはこれからなので、どういうものになるかまだ分からないわけですが…

2013年12月17日 (火)

今年も終わり

やっぱり自分はこういう媒体に向いていないらしく、更新を怠って久しい。
この間、ケンブリッジに滞在したり、国際シンポジウムでプレゼンしたり、初めての共編著を出したり、それなりに忙しかったわけだけれど、先日「論潮」(『週刊読書人』)の年末総括も脱稿して、今年のパブリケーションは終わり。
『週刊読書人』の企画は明石健五さんが持ち込んで下さったが(そもそも明石さんとは河上奨励賞の授賞式からお知り合い)、あまり表に出ずにしっかりとしたものを書きたいと思っていたときに渡りに船のお話だった。歴史研究をしている身としては、どうしても過去との比較を避けられないので、論壇の凋落は目についてしまうけれど、それでもいくつかの優れた評論を紹介し、また補助線を引いていく作業は(もちろん基本的には苦しいけれど)楽しく、媒体の性格上、プロを相手にしているという緊張感もとても有難かった。この場を借りて、御礼申し上げたい。

で、共編著はこちら→御厨貴・牧原出・佐藤信『政権交代を超えて』(岩波書店)
そういえば、アマゾンのレビューをさっそくつけて下さった方がいらっしゃったのですが、評価はともかく、「大学院の学内誌に掲載された記事の寄せ集めになっている」というのは事実と異なるので訂正させていただきます。対談も、インタビューも、論考も、全てこの本のためのもので…。だから大変だったんですよ…はぁ、思い出しても疲れちゃう。
個人的には、よくこれだけインタビューとれたなっていうのが驚きです。亀井静香、小沢一郎、細田博之、谷垣禎一、塩崎恭久、岡田克也、辻元清美、湯浅誠(敬称略)。参考までに、自分は小沢さんと岡田さんには同席しておらず、他は出席して、特に谷垣さんと辻元さん、湯浅さんについてはメインで担当させていただきました。この時期にこういう発言をしていたんだというのは、資料としても十分あとに残るものだと思います。これだけの資料を前にすれば、両先生の論考が冴えるのも必然。是非、手にとってみて下さいませ。
ただ、全体としては字数の制限が厳しく、インタビューも完全に収録はできていません。座談会でぼくはほとんど発言していないようですけれど、これも最終段階で大幅に削除したためです。論考も後半に展開したいと思っていた文脈をまるままカットしてしまったので、個人的には悔いが残るところもあるのですが、とはいえ、そのおかげでスリムで手に入りやすいものになったので、よしとしたいと思います。この借りはいずれ、どこかで!

それから、建築と政治についてですが、ぼくもお手伝いさせていただいた御厨先生の『権力の館を歩く』が文庫化されました!→御厨貴『権力の館を歩く 建築空間の政治学』(ちくま文庫)
解説は藤森先生(!!)。そういえば以前、大野更紗さんとお会いしたときに、この本が大好きとおっしゃっていたのを思い出します。幅広い読者を得て、しかも見事な装丁で文庫化。幸せな本だなぁ。
この連載の過程では、分析視角をめぐって御厨先生と随分争い、その後も体系的な分析枠組みを構築して『館』打倒は自分の一つの目標です。その道程として日文研で二回報告をしています。一つは山県有朋の空間利用について。国際シンポジウムでも少し拡げたので、そのうちかたちにしたいのですが、鈴木博之先生の優れた業績を前に、もっと肉付けが必要そう。もう一つは今月はじめに報告した国会議事堂建築をめぐる政治過程について。こちらもとても十分とは言えないけれど、いくつか面白い史料を発見できたので、スケッチを研究会の論文集に入れる予定です。

もちろん、本郷での本丸の研究も地道に進めてはいるので、来年はますます充実しそうだなとウキウキしています。とりあえず年末はそのための下ごしらえ。

というわけで、少し早いですけど、みなさん今年もありがとうございました。
来年もよろしくお願いします!

2013年5月25日 (土)

本の紹介、いくつか

久々に西田亮介さんと会ってきた。
「ネット選挙」に関する本が5月31日に発売らしい。

西田亮介『ネット選挙 解禁がもたらす日本社会の変容』東洋経済新報社

よくまとまっているし、何より手早い。さすがだ。
ネット選挙については自分も以前、『すばる』に書かせてもらった。
今後の展望については西田さんほど楽観的にはなれないけれど、「理念なき解禁」というのはその通りだと思う。

実は、いただいた本で紹介できていない本がいくつもある。

北岡門下の先輩、伏見さんによる待望の著作。
ぼくら後輩の中では伝説的な修論の延長線上にある。
桂太郎研究はここ数年、小林道彦先生の評伝千葉功先生の評伝など、どんどん世に出ているけれど、伏見先輩は特に予算の側面に注目して政治指導者のリーダーシップを問うている。
こうした視点の相違は、結果的に、千葉先生の研究と対照的な「拙速な新党構想」という立憲同志会への評価を導いてもいる。

伏見岳人『近代日本の予算政治 1900-1914 桂太郎の政治指導と政党内閣の確立過程』東京大学出版会

やっぱり専門が近いと簡単に読み切れない。というわけで、まだ読みさし。

次は、同じく先輩の本。瑠麗さんは藤原帰一門下生。

三浦瑠麗『シビリアンの戦争 デモクラシーが攻撃的になるとき』岩波書店

伏見さんと同様、博論ベースだけれど、一般読者をかなり意識してるのだろう、読みやすい。
命題もシンプルで、シビリアンコントロールがしばしば好戦的になるのはなぜかというもの。
最後に少し触れている「共和国」の話について、次の本をすでに準備中とのこと。楽しみ。

それから、お世話になっている先生の本。

長沢栄治『エジプトの自画像 ナイルの思想と地域研究』平凡社

既出の論文が多いけれど、それらがナイルという流れに沿って撚り合わされる。
その流れは同時に著者の自分史でもあり、ナイルに寄り添う長沢先生のあの暖かな雰囲気を感じられる。こういう構成、いいなあ。
長沢先生からは実は前著『アラブ革命の遺産』(平凡社)もいただいている。
アラブ地域というと、どうしても時事的な側面ばかりが強調されてしまうけれど、その底流を丹念に追う作業はとても貴重だ。
もっとも、長沢先生にはエジプト革命のスッキリした解説もある(『エジプト革命 アラブ世界変動の行方』平凡社新書)。

それから、清水先生による新書。

清水唯一朗『近代日本の官僚 維新官僚から学歴エリートへ』中公新書

前からずっと話は伺っていて、ずいぶんと待ったけれど、ようやく刊行。
「時代と人材は螺旋を描くようにして、バトンを渡すようにして受け継がれてきた」という、官僚たちの歴史を描く。
新書なのだが、時間の分の思いもこもっているのだろうか、重い。
別にぼくが言うことでもないが、戦前の官僚たちについて知りたいなら当然参照される著作になるだろうと思う。しかも、名前も知らない官僚のエピソードがとにかくたくさん詰まっている!官僚をどうしても遠く感じてしまう一般読者にもオススメしたい。
ちなみに、早速文句を言えば、官僚たちを変化させる変数が常に外在的に与えられており、時代と人材との「螺旋」の構造がよくわからない。それから、政官が相互に陥入し合う現実が描かれているのはとっても面白いのだけれど、その構造の全体像とその変動とが把握しにくい。まぁこのあたり、今度会ったときに聞いてみよう。

それにしても、新書は別としても、みんなステキな装丁で、驚かされる。
ココログで画像表示するにはどうしたらいいのだろうか…とにかくせっかくリンク貼ったので装丁見てみてくださいor書店に足を運んでみてくださいまし。

2012年4月 5日 (木)

新年度

随分とご無沙汰をしてしまいましたが、新年度も始まりましたのでちょっくら近況を。

一昨日発売の『週刊朝日』(4月13日号)の「21世紀の神々」という企画で、紹介をいただきました。取材自体は3ヶ月前くらいにしていただいたものですので、少し若かった頃の写真が見れます(笑)

最近は、「経験の社会化とその陥穽」という小文を『Ra+』というタブロイド紙に寄稿したほか、『60年代のリアル』でも扱った三島由紀夫について「三島由紀夫における肉体と死」という論考(こっちの方はちょっと長め)を若松孝二監督の近日公開作品『11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』のガイドブックへ寄稿しました。
いずれも今春には刊行されるのではないかと思いますので、また刊行されたらお知らせします(たぶん)。
あとで読み返してみると、二つの問題意識はつながっている気がします。
とくに三島の方は、再読したり、新しいものを読んだり、いろいろと発見が多くて、とてもツラくて楽しい作業でした。関係者各位に御礼申し上げます。

日本政治外交史関係では、指導教員だった北岡伸一先生に東大での最後のご指導をいただくにあたって、「第一次大戦下の海洋と日本――戦時船舶管理令とその周辺――」というゼミ報告を行いました。
題名だけは壮大ながら、内容は田健治郎日記を中心にしながら、第一次世界世界大戦下の非常な船腹不足に日本政府がいかに対応したかを扱ったものです。具体的には、戦時船舶管理令と日米船鉄交換交渉を中心に、日本郵船増資問題、久原財閥による南洋開発などを扱いました。
なお、いろいろな方からお問い合わせいただいております今年度の指導教官についてですが、東大社会科学研究所(社研)の五百旗頭薫先生にご指導をいただいております。多くの先生からご指導を賜り、さまざまな分野のいろんな先輩からたくさん刺激をいただける環境を生かして、今後とも研鑽を積んでいくつもりですので、ご関係の方々は今後ともよろしくお願いいたします。

2012年1月31日 (火)

「じんぶんや」のお知らせ♪

お知らせが遅くなりましたが、先週から紀伊國屋新宿本店五階の「じんぶんや」にて、ブックフェアを開催させていただいております。

「政治学のK点を越えて―『60年代のリアル』と政治の越境」という大げさなタイトルではありますが、肩肘張らず、これまでの政治学の枠組みを考え直すためのキッカケを探そうという企画です。

でも、今回の企画のもう一つのポイントは、若者の書店離れというようなことが言われるなかで、書店はいかに魅力的になりうるかということを追求してみたことです。
先日のトークライブでもお話しましたが、自分としては、やはり本は読者の手に届いて初めて「ほん」なるものになると思っています。それゆえ、「ほん」とは、単にそのコンテンツのみならず、その装丁やディスプレイまで含めて、勝負しなければならないものだと思うわけで、そんなわけで今回はディスプレイでも挑戦できればと思ったわけです。

そこで今回は、女子美術大学の杉田敦先生にご相談し、門下の現役大学生の方に、ディスプレイを担当していただきました。コラボレーションですね。
髙橋夏菜さん(四年生)、宮田恵利華さん、矢部唯衣さん(以上、二年生)。
美術を専攻する彼女たちのアイデアは、とても刺激的で、なんだかトンデモナイディスプレイが完成してしまうことになりました(笑)

彼女たちが選んだテーマは「街」。
それはそれはビジュアル的にもスゴイことになっているのですが(紀伊國屋さん提供の写真はこちら)、こうした並べ方はおそらく書店における陳列としても異例なものだと思います。たとえば、わざわざ隙間を空けて陳列がしてあったり、本がときどき横を向いていたり……でも、それに手を伸ばしたくなるんだから不思議ですよね……。

閉店間際から夜遅くまでかかって、みんなで一緒に設営もしたのですが、アイデアもさることながら集中力も、やっぱり「若さ」ってスゴイな……と圧倒されました。

「若さ」が書店にどんな風を吹き込んだのか、本と美術はいかにしてコラボレートできるのか、そんな先端的な企画を是非ご覧いただければ幸いです。

※写真は、左からミネルヴァ書房・三上直樹さん、女子美・髙橋夏菜さん、宮田恵利華さん、矢部唯衣さん、自分、紀伊國屋書店・吉田敏恵さん。写真を撮ってくださったのはミネルヴァ書房・水野安奈さん。
その他、紀伊國屋書店・山村弓子さま、藤本浩介さまにも、大変お世話になりました。
みなさん、ありがとうございました!!

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2012年1月16日 (月)

トークライブの様子がYoutubeにアップされています!

先日(12日)、拙著『60年代のリアル』刊行を記念して、紀伊國屋書店新宿南店の「ふらっとすぽっと」で開催させていただいたトークライブ「ほんとむきあう」の様子がYoutubeにアップされています。(→こちら

通常のトークライブとはちがって、本づくりに関わってくださった方々をお招きして、本はどういうふうにつくられるのか、どのようにつくられるのが理想的なのか、また電子書籍などが現れている時代に紙の本はどのような意味を持つのか、そんなことを多面的に考えた企画です。
ここで本ではなく「ほん」と書いたのは、いわゆる紙媒体の本だけではなく電子書籍も含めて「ほん」であると考えるからであり、同時に、本はそれが物理的に本のかたちになる時点で本になるのではなく、読者が触れて始めて「ほん」になると思っているからです。
このトークライブでは、装丁者の方、印刷を担当してくださった方など、通常お話を聞くことができない方のお話を含めて、「ほん」のいろんな面をあぶり出すことができたのではないかなと思っています。

アップされているものは50分弱で切れてしまっていますが、これがみなさんにとって、「ほん」への見方を広げるものになれば幸いです。
あと、ぼくの話はマイクが遠すぎるのか、ほとんど聞き取れません……すみません。でも、大したこと話してないので大丈夫です(笑)

※このトークライブのあと、人生で初めてサインをしました。
緊張して困ってしまいました……あんまりぼくを追い込まないでください(笑)

(以下、後日追加)

※※謝辞

ご出演をいただきました、御厨先生、本書の装丁を担当してくださいました吉田さま、印刷を担当してくださいました小川さま、

ムリメな企画を受け入れてくださった野口店長、担当の神矢さま、

快くご協力いただきましたミネルヴァ書房の三上さま、水野さま、渡辺さま、

みなさま本当にありがとうございました!!

※※※ちなみに

本トークライブについては、1月24日の『毎日新聞』夕刊が取り上げてくださいました♪

2012年1月11日 (水)

「ほんとむきあう」ライブトークのお知らせ

すでに若干の頭出しをしておりますが、明日夕方、紀伊國屋新宿南口店にてライブトークをさせていただくことになりました。

予定通り(というか目論見通りというか、企み通りというか)、編集者の方はもちろん、装丁を担当してくださった吉田憲二さま、印刷を担当してくださった小川幹夫さままでお招きして、それぞれの「ほん」との向き合い方について、「ほん」の未来について、縦横無尽に語り合ってみようという、破天荒な企画になりました。

書籍に関するライブトークとはいっても、装丁者の方や、印刷を担当される方のお話を聞ける機会はなかなかないと思います。ぼく自身とっても楽しみにしている企画です。もしお立ち寄りいただけるお時間がございましたら、是非ちょっとでも覗いていただけたらと思っています。以下、紀伊國屋さんのウェブから引用(元の頁はこちら)。

ということで、よろしくお願いします!!

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1月12日(木)18:30~は『60年代のリアル』著者・佐藤信さんのライブトークをお届けします。

毎日新聞の連載を書籍化するという作業のなかで、デジタル・ネイティブ世代の佐藤さんは「ほん」とどう向き合ったのか、また関係者たちはどんな思いを持ちながら「ほん」と向き合ったのか。装丁者や印刷会社の方もお招きしながら、『60年代のリアル』に扱われた話題を越えて、これからの「ほん」のあり 方を考えるためのトークとなります。ぜひ3階イベントスペース〈ふらっとすぽっと〉にお立ち寄りくださいませ!
60nendai3.jpg

1月31日まで3階ワクワク棚では、佐藤信『60年代のリアル』を読む《彼らのリアル、ぼくらのリアル》フェアを開催いたしております。ぜひこちらも合わせてご覧くださいませ。

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追加:2月19日まで印刷博物館で「世界のブックデザイン2010-11」展が開催されています。ここに並んでいる本を見ていると、なんだか「ほん」の可能性の拡がりを感じることができると思います。「ほん」が好きな人も、嫌いな人にも、是非足を運んで、ゆっくり見て欲しい展示です。無料だし(笑)

『週刊東洋経済』に著者インタビューが掲載されました!

『週刊東洋経済』に「60年代の問題意識はさほど遠くない」というタイトルで著者インタビューが掲載されています。

かなり長くお話したことを無理やり見開き一頁に収めていただいたこともあり、若干文脈がわかりにくいところなどありますが、拙著をお読みいただければ、だいたいご理解いただけるかと思います。

もし機会がありましたら、手にとってみてくださいませ。

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以下、さすがに訂正しておきたいところのみ列記。

108頁 四段目最終行 グラウンドメッセージ → グランドメッセージ
(仮にグラウンドメッセージという用語が存在するならば、言っていることは殆ど同じですが)
109頁 四段目 ×「東浩紀さんや宮台真司さんにしても、30歳代前半から世に出てきたのでは」
(東さんは20代から華々しく活躍していらっしゃいます。うろ覚えで話していたので間違えました。ゴメンナサイ。現在、30代以下の若い世代がやたら書いているということについての質問だったので、文意に影響はありません。)
109頁 四段目 ×「デフォルトやロスジェネを前提にしている人たちが目立つ。」
(たぶん、「デフォルト」を経済の意味でのデフォルトに取られてしまったんだと思います。こういうとき、若者言葉ってよくないなって感じます。元々しゃべっていた内容がわかりませんが、たぶん「ロスジェネのような世代的な一体性を前提として発言する人たちが目立つように感じる」ということが言いたかったんでしょう。)
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以上!
取材をしていただき、ありがとうございました!!

巨星墜つれども、星空はいまだ輝く(その2)

ようやく、明日(今日だけど)の報告準備と授業で与えられた書評課題を終える。

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先のポストで書いた建築の先進性ということは(多くの場合実験的なレベルにとどまるとしても)ずっと長い間実践されてきたんだと思う。実は、それを痛感したのは去年、五十嵐太郎先生の『現代日本建築家列伝』(河出書房新社、2011年)を読んでのことだった。正直に白状すれば、この本を手に取ったとき、故村松貞次郎先生の『日本建築家山脈』(鹿島出版会、1965年、2005年に復刊)の現代版だと勝手に思い込んでいた。けれど、この本の中では(はじめに系図が示されて、そういった興味を持つ人への配慮がなされているけれど)そんな系譜的な理解はむしろ廃されており、むしろそれぞれの建築家たちのそれぞれの姿が浮かび上がっている。
丹下健三、黒川紀章、磯崎新、安藤忠雄、伊藤豊雄、坂本一成、藤森照信、飯島直樹、妹島和世、西沢立衛、隈研吾、アトリエ・ワン、阿部仁史、手塚建築研究所、遠藤秀平、藤本壮介、石上純也……ここに登場してくるのは、誰一人として奇異な建築家ではない。ほとんどよく名前を知られている人ばかりだし、仮に名前を知らずともその代表的建築の写真を見れば、(ある程度建築に興味がある人なら)「あぁ」となるに違いない。

でも!

やっぱり五十嵐先生の目を通すと違うのだ……。加えて個人的に驚嘆するのは、五十嵐先生がすべての建築家に対して真摯に向き合い、肯定的で建設的な捉え方をしていること。というのも、(おそらく政治の場合も同じだが、それにもまして)美学が絡む領域において批評をするとき、誰しも好き嫌いということがないわけはない。しかし、そんな中で、好き嫌いを問わず、その革新性、新規性を指摘できるということは、なかなか身につけることのできない才なのだと思うのだ。そのような才の目を通すことで、ぼくらはそれまで「嫌い」で無意識に理解を拒んでいた建築家たちの作品に新しい目を向けることができる。

建築について、深く考えさせてくれるという意味では、田中純先生の『建築のエロティシズム 世紀転換期ヴィーンにおける装飾の運命』(平凡社新書、2011年)も見逃せない。タナジュン先生の、ぼくの知る限りもっとも薄く、もっとも安いこの本。それだけで買う価値があると思うのだが、それはともかく……アドルフ・ローエの言説を(またはヴィトゲンシュタインやカフカのそれを)手がかりにしながら19世紀末のヴィーンを読み解くこの本は、タナジュン先生らしく性と絡めながら「装飾」について考察していく。それも十分に興味深いのだが、実は「装飾」に捉え切れない問題もまた、含まれていることに注意しなければならないだろう。
たとえば、ローエの建築についての考察はその一つである。そこで指摘されるのは、「見られる」対象としての家と、見られることなく「住まわれる」空間としての家、との分裂であると指摘される。通常、それはファサードと内部空間との二分法によって理解される。しかし、ローエの建築においては、そんな一筋縄な理解は通用しない。鏡の壁面や、家屋の中央にまるで劇場のボックス席のように設えられた婦人室など、建築内部に、物理的実在と視覚イメージの分裂が持ち込まれているからである。多様に組み合わされた床のレベルなどは、どこか五十嵐先生の読みとく坂本一成を彷彿とさせるところもあり、未だ建築に向かって思考することの可能性を感じさせてくれる記述である。

ところで、もう一つヴィトゲンシュタインの建築の分析を読みながら考えさせられたのは、扉や窓に対する言及だった。というのも、「接続詞」として語られるこれらの建築パーツは、装飾を刺青のように、畢竟壁と皮膚のように捉える建築観においては、内部と外部を貫通するものに他ならない。つまり、仮に人と建築とを結びつけることが可能なものとして捉えるならば、人が建築からインスピレーションを受けることができることの一つはおそらくこの「扉」や「窓」からに違いない。ぼくらはこの皮膚を突き抜けることができないからである。

と、そんなわけで積ん読であった浜本隆志先生の『「窓」の思想史 日本とヨーロッパの建築表象論』(筑摩選書、2011年)を紐解いてみたわけである(これはどれも去年の話だけれど)。すると、今度はまったくちがう方向に脳みそを引っ張っていかれてしまった。というのも、貫通する「窓」は同じでも、実はその「窓」の性質は日本とヨーロッパとでまったく異なるという事実に気付かされるからだ。浜本先生は、ヨーロッパは「垂直化=押す文化=発信型文化→資本の論理」、日本においては「水平化=引く文化=受信型文化→文化相対主義」というように整理できると論じている。ヨーロッパでは、レンガを上へ上へと積んでいくんだ。だからサグラダ・ファミリアみたいに長々建てることができる。なるほどーーー。

こうして、気がついてみると、建築様式とは社会のあり方と密接に関わっていることは、あたかも当然のように感じている自分がいることに気づく。もっとも、それには建築の方が社会のあり方とどう関わっていくのか、挑戦しつづけているということの証左でもあるのだろう。2011年の後半になって、こうした領域の本が次々出版されたのも偶然ではないのかもしれない。ということで、あと二冊ほど紹介しておきたい。

一冊は、磯崎新さんと故多木浩二さんの対談本、『世紀末の思想と建築』(岩波人文書セレクション、2011年)。それぞれの個人的体験から始まって、68年をスタートに、最後は人間と建築というところまで語りたおす二人の巨人の知の交歓。ぼく自身この本についてはまだパラッとしか読めていないので、これ以上の紹介はできませんが、それにしても岩波のこのシリーズ……とても魅力的な本を並べているといつも感心する。

もう一冊は、三浦展さんと藤村龍至さん編著の『3.11後の建築と社会デザイン』(平凡社新書、2011年)。編著者たちに、山本理顕、島原万丈、大月敏雄、中村陽一、藤村正之、松原隆一郎、家成俊勝、松隈章、永山祐子、広井良典、山崎亮、大野秀敏を加えたシンポジウムの記録。参加者からもわかる通り、必ずしも建築の専門家が集まっているわけではなく、通常の提言とどこまでちがうのかと言われれば、そこまで変わらないのだけれど、ところどころ東北における建築の状況(とくに仮設住宅の現状)についての言及もある。

大月「われわれ建築家は、社会をそのまま変えることは不可能です。建築を一個つくったくらいでは社会は変えられない。」
(略)
山崎「先ほど大野さんはご謙遜からか、建築単体では社会を変えられないとおっしゃった。それはある意味で真実ではあるけれど、建築家が持っているバランス感覚、構造であったり意匠であったりコストであったり法規であったり、そういうものをうまくバランスをとって統合していく「アーキテクト」としての職能は、大きな力を持っているはずだと僕は思うんですね。」

これから建築家が、建築をつくるのと違う方面で活躍するのかどうか、そのことは門外のぼくにはわからない。けれど、この山崎さんの発言は、ぼくらが建築を見ながら、新たな社会の可能性を考えるということの可能性をも示唆しているのだと思う。というわけで、ここまで読んでくれた人は(あんまりいないと思うけれど)ありがとうございました。もし、ご興味があれば政治の本ばかりでなく、建築の本も手にとってみていただけたらと思います。

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