2012年4月 5日 (木)

新年度

随分とご無沙汰をしてしまいましたが、新年度も始まりましたのでちょっくら近況を。

一昨日発売の『週刊朝日』(4月13日号)の「21世紀の神々」という企画で、紹介をいただきました。取材自体は3ヶ月前くらいにしていただいたものですので、少し若かった頃の写真が見れます(笑)

最近は、「経験の社会化とその陥穽」という小文を『Ra+』というタブロイド紙に寄稿したほか、『60年代のリアル』でも扱った三島由紀夫について「三島由紀夫における肉体と死」という論考(こっちの方はちょっと長め)を若松孝二監督の近日公開作品『11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』のガイドブックへ寄稿しました。
いずれも今春には刊行されるのではないかと思いますので、また刊行されたらお知らせします(たぶん)。
あとで読み返してみると、二つの問題意識はつながっている気がします。
とくに三島の方は、再読したり、新しいものを読んだり、いろいろと発見が多くて、とてもツラくて楽しい作業でした。関係者各位に御礼申し上げます。

日本政治外交史関係では、指導教員だった北岡伸一先生に東大での最後のご指導をいただくにあたって、「第一次大戦下の海洋と日本――戦時船舶管理令とその周辺――」というゼミ報告を行いました。
題名だけは壮大ながら、内容は田健治郎日記を中心にしながら、第一次世界世界大戦下の非常な船腹不足に日本政府がいかに対応したかを扱ったものです。具体的には、戦時船舶管理令と日米船鉄交換交渉を中心に、日本郵船増資問題、久原財閥による南洋開発などを扱いました。
なお、いろいろな方からお問い合わせいただいております今年度の指導教官についてですが、東大社会科学研究所(社研)の五百旗頭薫先生にご指導をいただいております。多くの先生からご指導を賜り、さまざまな分野のいろんな先輩からたくさん刺激をいただける環境を生かして、今後とも研鑽を積んでいくつもりですので、ご関係の方々は今後ともよろしくお願いいたします。

2012年1月31日 (火)

「じんぶんや」のお知らせ♪

お知らせが遅くなりましたが、先週から紀伊國屋新宿本店五階の「じんぶんや」にて、ブックフェアを開催させていただいております。

「政治学のK点を越えて―『60年代のリアル』と政治の越境」という大げさなタイトルではありますが、肩肘張らず、これまでの政治学の枠組みを考え直すためのキッカケを探そうという企画です。

でも、今回の企画のもう一つのポイントは、若者の書店離れというようなことが言われるなかで、書店はいかに魅力的になりうるかということを追求してみたことです。
先日のトークライブでもお話しましたが、自分としては、やはり本は読者の手に届いて初めて「ほん」なるものになると思っています。それゆえ、「ほん」とは、単にそのコンテンツのみならず、その装丁やディスプレイまで含めて、勝負しなければならないものだと思うわけで、そんなわけで今回はディスプレイでも挑戦できればと思ったわけです。

そこで今回は、女子美術大学の杉田敦先生にご相談し、門下の現役大学生の方に、ディスプレイを担当していただきました。コラボレーションですね。
髙橋夏菜さん(四年生)、宮田恵利華さん、矢部唯衣さん(以上、二年生)。
美術を専攻する彼女たちのアイデアは、とても刺激的で、なんだかトンデモナイディスプレイが完成してしまうことになりました(笑)

彼女たちが選んだテーマは「街」。
それはそれはビジュアル的にもスゴイことになっているのですが(紀伊國屋さん提供の写真はこちら)、こうした並べ方はおそらく書店における陳列としても異例なものだと思います。たとえば、わざわざ隙間を空けて陳列がしてあったり、本がときどき横を向いていたり……でも、それに手を伸ばしたくなるんだから不思議ですよね……。

閉店間際から夜遅くまでかかって、みんなで一緒に設営もしたのですが、アイデアもさることながら集中力も、やっぱり「若さ」ってスゴイな……と圧倒されました。

「若さ」が書店にどんな風を吹き込んだのか、本と美術はいかにしてコラボレートできるのか、そんな先端的な企画を是非ご覧いただければ幸いです。

※写真は、左からミネルヴァ書房・三上直樹さん、女子美・髙橋夏菜さん、宮田恵利華さん、矢部唯衣さん、自分、紀伊國屋書店・吉田敏恵さん。写真を撮ってくださったのはミネルヴァ書房・水野安奈さん。
その他、紀伊國屋書店・山村弓子さま、藤本浩介さまにも、大変お世話になりました。
みなさん、ありがとうございました!!

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2012年1月16日 (月)

トークライブの様子がYoutubeにアップされています!

先日(12日)、拙著『60年代のリアル』刊行を記念して、紀伊國屋書店新宿南店の「ふらっとすぽっと」で開催させていただいたトークライブ「ほんとむきあう」の様子がYoutubeにアップされています。(→こちら

通常のトークライブとはちがって、本づくりに関わってくださった方々をお招きして、本はどういうふうにつくられるのか、どのようにつくられるのが理想的なのか、また電子書籍などが現れている時代に紙の本はどのような意味を持つのか、そんなことを多面的に考えた企画です。
ここで本ではなく「ほん」と書いたのは、いわゆる紙媒体の本だけではなく電子書籍も含めて「ほん」であると考えるからであり、同時に、本はそれが物理的に本のかたちになる時点で本になるのではなく、読者が触れて始めて「ほん」になると思っているからです。
このトークライブでは、装丁者の方、印刷を担当してくださった方など、通常お話を聞くことができない方のお話を含めて、「ほん」のいろんな面をあぶり出すことができたのではないかなと思っています。

アップされているものは50分弱で切れてしまっていますが、これがみなさんにとって、「ほん」への見方を広げるものになれば幸いです。
あと、ぼくの話はマイクが遠すぎるのか、ほとんど聞き取れません……すみません。でも、大したこと話してないので大丈夫です(笑)

※このトークライブのあと、人生で初めてサインをしました。
緊張して困ってしまいました……あんまりぼくを追い込まないでください(笑)

(以下、後日追加)

※※謝辞

ご出演をいただきました、御厨先生、本書の装丁を担当してくださいました吉田さま、印刷を担当してくださいました小川さま、

ムリメな企画を受け入れてくださった野口店長、担当の神矢さま、

快くご協力いただきましたミネルヴァ書房の三上さま、水野さま、渡辺さま、

みなさま本当にありがとうございました!!

※※※ちなみに

本トークライブについては、1月24日の『毎日新聞』夕刊が取り上げてくださいました♪

2012年1月11日 (水)

「ほんとむきあう」ライブトークのお知らせ

すでに若干の頭出しをしておりますが、明日夕方、紀伊國屋新宿南口店にてライブトークをさせていただくことになりました。

予定通り(というか目論見通りというか、企み通りというか)、編集者の方はもちろん、装丁を担当してくださった吉田憲二さま、印刷を担当してくださった小川幹夫さままでお招きして、それぞれの「ほん」との向き合い方について、「ほん」の未来について、縦横無尽に語り合ってみようという、破天荒な企画になりました。

書籍に関するライブトークとはいっても、装丁者の方や、印刷を担当される方のお話を聞ける機会はなかなかないと思います。ぼく自身とっても楽しみにしている企画です。もしお立ち寄りいただけるお時間がございましたら、是非ちょっとでも覗いていただけたらと思っています。以下、紀伊國屋さんのウェブから引用(元の頁はこちら)。

ということで、よろしくお願いします!!

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1月12日(木)18:30~は『60年代のリアル』著者・佐藤信さんのライブトークをお届けします。

毎日新聞の連載を書籍化するという作業のなかで、デジタル・ネイティブ世代の佐藤さんは「ほん」とどう向き合ったのか、また関係者たちはどんな思いを持ちながら「ほん」と向き合ったのか。装丁者や印刷会社の方もお招きしながら、『60年代のリアル』に扱われた話題を越えて、これからの「ほん」のあり 方を考えるためのトークとなります。ぜひ3階イベントスペース〈ふらっとすぽっと〉にお立ち寄りくださいませ!
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1月31日まで3階ワクワク棚では、佐藤信『60年代のリアル』を読む《彼らのリアル、ぼくらのリアル》フェアを開催いたしております。ぜひこちらも合わせてご覧くださいませ。

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追加:2月19日まで印刷博物館で「世界のブックデザイン2010-11」展が開催されています。ここに並んでいる本を見ていると、なんだか「ほん」の可能性の拡がりを感じることができると思います。「ほん」が好きな人も、嫌いな人にも、是非足を運んで、ゆっくり見て欲しい展示です。無料だし(笑)

『週刊東洋経済』に著者インタビューが掲載されました!

『週刊東洋経済』に「60年代の問題意識はさほど遠くない」というタイトルで著者インタビューが掲載されています。

かなり長くお話したことを無理やり見開き一頁に収めていただいたこともあり、若干文脈がわかりにくいところなどありますが、拙著をお読みいただければ、だいたいご理解いただけるかと思います。

もし機会がありましたら、手にとってみてくださいませ。

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以下、さすがに訂正しておきたいところのみ列記。

108頁 四段目最終行 グラウンドメッセージ → グランドメッセージ
(仮にグラウンドメッセージという用語が存在するならば、言っていることは殆ど同じですが)
109頁 四段目 ×「東浩紀さんや宮台真司さんにしても、30歳代前半から世に出てきたのでは」
(東さんは20代から華々しく活躍していらっしゃいます。うろ覚えで話していたので間違えました。ゴメンナサイ。現在、30代以下の若い世代がやたら書いているということについての質問だったので、文意に影響はありません。)
109頁 四段目 ×「デフォルトやロスジェネを前提にしている人たちが目立つ。」
(たぶん、「デフォルト」を経済の意味でのデフォルトに取られてしまったんだと思います。こういうとき、若者言葉ってよくないなって感じます。元々しゃべっていた内容がわかりませんが、たぶん「ロスジェネのような世代的な一体性を前提として発言する人たちが目立つように感じる」ということが言いたかったんでしょう。)
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以上!
取材をしていただき、ありがとうございました!!

巨星墜つれども、星空はいまだ輝く(その2)

ようやく、明日(今日だけど)の報告準備と授業で与えられた書評課題を終える。

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先のポストで書いた建築の先進性ということは(多くの場合実験的なレベルにとどまるとしても)ずっと長い間実践されてきたんだと思う。実は、それを痛感したのは去年、五十嵐太郎先生の『現代日本建築家列伝』(河出書房新社、2011年)を読んでのことだった。正直に白状すれば、この本を手に取ったとき、故村松貞次郎先生の『日本建築家山脈』(鹿島出版会、1965年、2005年に復刊)の現代版だと勝手に思い込んでいた。けれど、この本の中では(はじめに系図が示されて、そういった興味を持つ人への配慮がなされているけれど)そんな系譜的な理解はむしろ廃されており、むしろそれぞれの建築家たちのそれぞれの姿が浮かび上がっている。
丹下健三、黒川紀章、磯崎新、安藤忠雄、伊藤豊雄、坂本一成、藤森照信、飯島直樹、妹島和世、西沢立衛、隈研吾、アトリエ・ワン、阿部仁史、手塚建築研究所、遠藤秀平、藤本壮介、石上純也……ここに登場してくるのは、誰一人として奇異な建築家ではない。ほとんどよく名前を知られている人ばかりだし、仮に名前を知らずともその代表的建築の写真を見れば、(ある程度建築に興味がある人なら)「あぁ」となるに違いない。

でも!

やっぱり五十嵐先生の目を通すと違うのだ……。加えて個人的に驚嘆するのは、五十嵐先生がすべての建築家に対して真摯に向き合い、肯定的で建設的な捉え方をしていること。というのも、(おそらく政治の場合も同じだが、それにもまして)美学が絡む領域において批評をするとき、誰しも好き嫌いということがないわけはない。しかし、そんな中で、好き嫌いを問わず、その革新性、新規性を指摘できるということは、なかなか身につけることのできない才なのだと思うのだ。そのような才の目を通すことで、ぼくらはそれまで「嫌い」で無意識に理解を拒んでいた建築家たちの作品に新しい目を向けることができる。

建築について、深く考えさせてくれるという意味では、田中純先生の『建築のエロティシズム 世紀転換期ヴィーンにおける装飾の運命』(平凡社新書、2011年)も見逃せない。タナジュン先生の、ぼくの知る限りもっとも薄く、もっとも安いこの本。それだけで買う価値があると思うのだが、それはともかく……アドルフ・ローエの言説を(またはヴィトゲンシュタインやカフカのそれを)手がかりにしながら19世紀末のヴィーンを読み解くこの本は、タナジュン先生らしく性と絡めながら「装飾」について考察していく。それも十分に興味深いのだが、実は「装飾」に捉え切れない問題もまた、含まれていることに注意しなければならないだろう。
たとえば、ローエの建築についての考察はその一つである。そこで指摘されるのは、「見られる」対象としての家と、見られることなく「住まわれる」空間としての家、との分裂であると指摘される。通常、それはファサードと内部空間との二分法によって理解される。しかし、ローエの建築においては、そんな一筋縄な理解は通用しない。鏡の壁面や、家屋の中央にまるで劇場のボックス席のように設えられた婦人室など、建築内部に、物理的実在と視覚イメージの分裂が持ち込まれているからである。多様に組み合わされた床のレベルなどは、どこか五十嵐先生の読みとく坂本一成を彷彿とさせるところもあり、未だ建築に向かって思考することの可能性を感じさせてくれる記述である。

ところで、もう一つヴィトゲンシュタインの建築の分析を読みながら考えさせられたのは、扉や窓に対する言及だった。というのも、「接続詞」として語られるこれらの建築パーツは、装飾を刺青のように、畢竟壁と皮膚のように捉える建築観においては、内部と外部を貫通するものに他ならない。つまり、仮に人と建築とを結びつけることが可能なものとして捉えるならば、人が建築からインスピレーションを受けることができることの一つはおそらくこの「扉」や「窓」からに違いない。ぼくらはこの皮膚を突き抜けることができないからである。

と、そんなわけで積ん読であった浜本隆志先生の『「窓」の思想史 日本とヨーロッパの建築表象論』(筑摩選書、2011年)を紐解いてみたわけである(これはどれも去年の話だけれど)。すると、今度はまったくちがう方向に脳みそを引っ張っていかれてしまった。というのも、貫通する「窓」は同じでも、実はその「窓」の性質は日本とヨーロッパとでまったく異なるという事実に気付かされるからだ。浜本先生は、ヨーロッパは「垂直化=押す文化=発信型文化→資本の論理」、日本においては「水平化=引く文化=受信型文化→文化相対主義」というように整理できると論じている。ヨーロッパでは、レンガを上へ上へと積んでいくんだ。だからサグラダ・ファミリアみたいに長々建てることができる。なるほどーーー。

こうして、気がついてみると、建築様式とは社会のあり方と密接に関わっていることは、あたかも当然のように感じている自分がいることに気づく。もっとも、それには建築の方が社会のあり方とどう関わっていくのか、挑戦しつづけているということの証左でもあるのだろう。2011年の後半になって、こうした領域の本が次々出版されたのも偶然ではないのかもしれない。ということで、あと二冊ほど紹介しておきたい。

一冊は、磯崎新さんと故多木浩二さんの対談本、『世紀末の思想と建築』(岩波人文書セレクション、2011年)。それぞれの個人的体験から始まって、68年をスタートに、最後は人間と建築というところまで語りたおす二人の巨人の知の交歓。ぼく自身この本についてはまだパラッとしか読めていないので、これ以上の紹介はできませんが、それにしても岩波のこのシリーズ……とても魅力的な本を並べているといつも感心する。

もう一冊は、三浦展さんと藤村龍至さん編著の『3.11後の建築と社会デザイン』(平凡社新書、2011年)。編著者たちに、山本理顕、島原万丈、大月敏雄、中村陽一、藤村正之、松原隆一郎、家成俊勝、松隈章、永山祐子、広井良典、山崎亮、大野秀敏を加えたシンポジウムの記録。参加者からもわかる通り、必ずしも建築の専門家が集まっているわけではなく、通常の提言とどこまでちがうのかと言われれば、そこまで変わらないのだけれど、ところどころ東北における建築の状況(とくに仮設住宅の現状)についての言及もある。

大月「われわれ建築家は、社会をそのまま変えることは不可能です。建築を一個つくったくらいでは社会は変えられない。」
(略)
山崎「先ほど大野さんはご謙遜からか、建築単体では社会を変えられないとおっしゃった。それはある意味で真実ではあるけれど、建築家が持っているバランス感覚、構造であったり意匠であったりコストであったり法規であったり、そういうものをうまくバランスをとって統合していく「アーキテクト」としての職能は、大きな力を持っているはずだと僕は思うんですね。」

これから建築家が、建築をつくるのと違う方面で活躍するのかどうか、そのことは門外のぼくにはわからない。けれど、この山崎さんの発言は、ぼくらが建築を見ながら、新たな社会の可能性を考えるということの可能性をも示唆しているのだと思う。というわけで、ここまで読んでくれた人は(あんまりいないと思うけれど)ありがとうございました。もし、ご興味があれば政治の本ばかりでなく、建築の本も手にとってみていただけたらと思います。

2012年1月 5日 (木)

巨星墜つれども、星空はいまだ輝く(その1)

菊竹清訓さんの訃報に接する。


 菊竹さんといえば(もちろん面識もなにもないぼくにとっては)昨年森美術館で開催されていた「メタボリズムの未来都市」展が鮮やかに思い出される。その実験的意図に富んだ彼の作品たちは、そこで躍動しているように思われた。あるいは典型的に生物的形象の取り込みを狙い、あるいは地霊とも言いうるような日本的意匠とコンクリートとの接合を模索した。

 「メタボリズム」という語では括れないその胎動が、現代にも脈々と受け継がれていることを感じさせてくれたのは、東京都現代美術館で開催中の「建築、アートがつくりだす新しい環境」展だった。エントランスから一線に並んだ、被災した集落を再現した11の白い模型(それは津波の記憶という実用性を備えているというよりまるで墓標であった)。それらによって導かれる展覧会は、震災のことにはまるで言及しないけれど、災後の世界への強い思いを通奏させているように思われた。


 妹島和世と西沢立衛のプロジェクトSANAAによるロレックス・ラーニングセンターの模型によって始まり、その映像によって終わるこの展覧会は、意図せずしてメタボリズムの新しい胎動を墜ちゆく巨星に見せつける。
 平子晃久、伊東豊雄らがまるで内蔵を切り出してきたような生物的形象を建築に取り込もうと取り組めば、フランク・O・ゲイリーらの作品は高層ビルを奇妙に歪ませることでこれに応える。
 また藤本壮介のHouse NAはすでに有名な作品だが(それを言えばかなりの作品がすでに有名な作品ばかりだが)人間のスケールと建築のスケールを近づけることで人間の住む空間を再考させて、いつもながら新鮮な驚きを与えてくれる。
 かくして、いずれも人間とその住まう空間についての、柔らかくも、創造的な挑戦になっていたのであった。その課題は、かつてメタボリズムが取り組んだところのものと同じものに他ならないのではないだろうか。本当に素晴らしい展覧会だった。


 加えて、この展覧会の作品のほとんどが実際のところ災前の作品であったことも一言書き添えておきたい。災前の作品にも拘わらず、作家たちがその作品をあえてここに展示してきた、その事実には、彼らが災前から人と空間のありようについて、人の生きる環境について、真剣に考えてきたという自信と自負があるのだろうと感じるからだ。真に敬服すべき態度である。震災があろうとなかろうと、人がある空間のなかで他者と生きるということは変わることがない。変わることのない本質的なことをいつでも睨みながら思考できるか、それはぼくらにとって重要な問いなのである。彼らはそれを実践してきたのだった。


(つづきは2へ)


「メタボリズムの未来都市」展も「建築、アートがつくりだす新しい環境」展も今月15日まで開催。

2011年12月31日 (土)

今年の3冊

本年も残り少なくなりました。みなさまいかがお過ごしでしょうか?
今年は先生方はじめさまざまな方々のお力添えを得て、いろんな機会をいただけた一年でした。
また来年もよろしくお願いいたします。

ということで(という論理関係は意味不明ですけど)、個人的におもしろかった今年の本を三冊リストアップしてみたいと思います。いや、もちろん、三冊というのはかなり厳しいわけで、十分にたくさんの本を読めたわけじゃないですし、それなのにおもしろい本なんて山ほどあるわけですけど……。

まず一冊目は、池田純一『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』(講談社現代新書、3月刊)
今では当然のように論じられるデジタル空間の構築における思想の意義を、見事な手際で読みやすく論じた一冊。

二冊目は、ジル・ケペル『中東戦記』(講談社メチエ、9月刊)
もうすでにブログにも紹介したので多言は要しませんが、とにかく文芸書として読みたいような一冊です。

三冊目は、震災関係本から、五十嵐太郎『被災地を歩きながら考えたこと』(みすず書房、11月刊)
正直言って(すべて読んでいるわけではありませんが)震災関係本にはあまり関心しないことが多かったのですが、この本は噛みしめて読みたい一冊。著者が書いているように被災者の聴き取りを行ったり、復興計画を提案するようなものではないですが、東北大で建築を教える泰斗である五十嵐先生がどのように被災地を見るのか、是非手にとって欲しい本です。

三冊とも、内容もさることながら、標題や装丁も(『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』は現代新書の装丁ですが、あの色がうまくマッチしていますよね、あの色はどうやって選んでいるんでしょう?)素晴らしく、本の良さをいろんな側面から見て取ることができる本たちです。こういう本に出会えるから読書は楽しいですよね。

ぼくの専門に近いところでは、

小林和幸『谷田干城』(中公新書、3月刊)

『レヴァイアサン48 〔特集〕政治学と日本政治史のインターフェイス』(木鐸社、4月刊)

『週刊朝日増刊 朝日ジャーナル 政治の未来図』(朝日新聞出版、10月刊)

がいずれも素晴らしい本・特集でした。

小林先生のものは小林先生のこれまでの業績を反映させながら、谷干城や貴族院の歴史的地位について易しく論じた本。

『レヴァイアサン』は説明するまでもない学術雑誌ですが、(正直企画の趣旨なるインターフェイスが成功しているとは思わないのですが)清水唯一朗先生の論文や牧原出先生の論文からは、内閣や政官関係などの制度を中心に政治史を連続的に捉えようとする新しいアプローチの萌芽を見ることができるように思います。

一方、『朝日ジャーナル』の方は、あまり注目はされていないように思いますが、山口二郎先生、渡辺将人先生、牧原出先生、北岡伸一先生、村井良太先生、飯尾潤先生、坂本孝治郎先生、竹中治堅先生、赤坂幸一先生、北川正恭先生、増山幹高先生、御厨貴先生、平野浩先生、田中愛治先生、大山礼子先生、宇野重規先生、空井護先生、菅原琢先生、田中明彦先生、我部政明先生、蒲島郁夫先生、進藤榮一先生、池内恵先生、橋爪大三郎先生……どうやったらこんな先生たち集められたのというようなメンバーで、(「政治の未来図」が描けているのかどうかは読者の方々のご判断によりますが)とにかく必読です。古本で手に入れてでも是非読んでくださいませ。

今年は、古典や概説書の方に優れた本がたくさん登場した年でもありました。

カー『危機の二十年』(岩波文庫、11月刊)

古典としては、なによりこの本。原彬久先生による待望の新訳。必読。

升味準之輔『日本政党史論』(全七巻、東京大学出版会、12月刊)

こちらも待望の復刊。ぼくはいつも読書ノートをつけて、おもしろい箇所を書き写すようにしているのですが、この本は図書館から借りて読んでいたとき、一巻目から面白すぎてほとんど全文書き写しになり、途中で断念したことがあります。

また、概説書としては、吉川弘文館から「現代日本政治史」のシリーズ刊行が始まったほか、以下の二冊は(ぼくも授業を受けたことがある先生たちですが)感涙ものです。

渡辺浩『日本政治思想史』(東京大学出版会、3月刊)

とてもわかりやすい筆致で書かれているにも関わらず、よく読み込めば読み込むほど味が出る(特に渡辺先生の恩師である丸山先生の思想史と対比すると)奥の深い本です。ぼくもまだ三周しかしていないので、また読んでみようと思っています。

北岡伸一『日本政治史』(有斐閣、4月刊)

もともと放送大学のテキストとして書かれ、復刊が望まれたテキストがついに。北岡先生ならではの鋭い歴史叙述の手にかかれば、日本政治史はここまでコンパクトに描くことができる!

苅部直・宇野重規・中本義彦編『政治学をつかむ』(有斐閣、7月刊)

さらに概説的なものとして、新たなテキストとして登場した一冊。幅広い話題をとてもやわらかい言葉でまとめあげた、それでいて奥の深い、新たなテキストの名にふさわしい本だと思います。

ということで、新年が迫ってきているので、このへんで。

今年もステキな人たちと、ステキな本たちと、ステキな出会いをできたことに感謝!

来年もぜひぜひ楽しい年にしたいと思いますので、よろしくお願いいたします!!

P.S.1
拙著『60年代のリアル』のなかで荻上チキさんについて「社会学者」と表記してしまっていました。ご本人のツイッターでもご指摘いただきました。なんでこんなミスをしてしまったのかわかりませんが、すみませんでした。

P.S.2
ブックフェアについてですが、おかげさまで八重洲ブックセンターさまでのフェアは終了しました。代わって、紀伊國屋書店新宿南店さま、池袋リブロさま、丸善丸の内店さまなどでフェアが開始されております。こちらもよろしくお願いします!

2011年12月20日 (火)

都内10書店で開催!ブックフェアのお知らせ

拙著『60年代のリアル』を中心に、そこで扱った本などを並べたブックフェアを都内10書店で開催していただきます(以下に一覧を掲載させていただきました…大きくて魅力的な書店さんばっかり!)
ご案内が遅くなってしまいましたが、現在すでに八重洲ブックセンターさんの4階で始まっています。聞くところによれば、クリスマスツリーをはさんで隣では聖書フェアが行われているとか。いやあ、恐れ多い。
『60年代のリアル』ブックフェアの中には、プレゼントにするには不適な欝な本もあるかもしれませんが(笑)、そんな本もひとりでクリスマスを過ごす同志には最適かも!?是非足を運んで、手にとっていただければ嬉しいです♪

なお、紀伊國屋新宿本店さんの「じんぶんや」は『60年代のリアル』を中心にしたものではなく、僭越ながらぼくが選者となったブックフェアになる予定。おもしろいことやりたいと思っていますので、乞うご期待。またご連絡します。

それから、紀伊國屋新宿南口店さんでは来年1月12日にトークショーをさせていただけることになっています。時間は30分しかないっていうのに、いろんなゲストの方お呼びしちゃって、こちらもハチャメチャやる予定……あぁ~楽しみだなぁ~~♪

ということで、よろしくお願いします!!

*紀伊國屋書店新宿本店(じんぶんや)

 

営業時間:10002100

フェア実施期間:1月中旬~

開催フロア:5

 

*紀伊國屋書店新宿南店

 

営業時間:平日・日曜|10002000、土曜|10002030

フェア実施期間:1月~

開催フロア:3

 

*ブックファースト新宿店

 

営業時間:平日|10:0023:00、土曜・日曜・祝日|10:0022:00

フェア実施期間:調整中

開催フロア:Bゾーン(B1F

 

*ジュンク堂書店新宿店

営業時間: 11時~21

フェア実施期間:1月~

開催フロア:6

 

*丸善丸の内本店

営業時間:9:0021:00

フェア実施期間:12月末~

開催フロア:3

*八重洲ブックセンター本店

 

営業時間:平日|11:0021:00、土曜日・日曜日・祝日|11:0019:00

フェア実施期間:12月~

開催フロア:4

 

*三省堂書店神保町本店

営業時間:10002000

フェア実施期間:12月末~

開催フロア:4F

 

*リブロ池袋本店

営業時間:10:0022:00

フェア実施期間:12月~

開催フロア:1

 

MARUZEN&ジュンク堂書店 渋谷店

営業時間:10時~21

 フェア実施期間:2月~

 

*東京大学消費生活協同組合駒場書籍部

 営業時間:10時~19

 フェア実施期間:1月~

2011年12月18日 (日)

第五次吉田内閣期の政治過程について

昨日、御厨先生の最終講義シリーズの懇親会で桃山学院大の小宮京先生とお会いした。
北岡先生門下の先輩として、小宮先生には常々お世話になっているのだが、今回は小宮先生の最近ご発表されたご論文についてお話をした。

先生のご論文は『桃山法学』に掲載された「第五次吉田茂内閣期の政治過程:緒方竹虎と左派社会党を中心に」というもので、広範な文献・資料を用いて、緒方の動向に注目しながら第五次吉田内閣期を分析し、その中で、当時躍進していた「左派社会党の動向が政治的に大きな意味を有したこと」を明らかにしようとするものであった。
(CiNiiのオープンアクセスで公開されています)

このご論文をいただいたとき、「あぁ、これは痛烈なご批判だなぁ」と思った(そして小宮先生自身そう認めていらっしゃった)。というのも、吉田内閣総辞職後の首班指名選挙について(このとき左派社会党は緒方ではなく鳩山に投票した)、拙著『鈴木茂三郎』においては、鳩山と鈴木との個人的関係に焦点を当てるかたちで記述していた。しかし、そもそもなぜ緒方が挑戦したのか、勝てると思っていたのかという問題こそが重要であることについてはまったく考慮にも入れていなかった。小宮先生はこの点について、緒方が左派社会党の動向を読み違えたという解釈を取ることによって説明しようとすると同時に、自民党側から見ればこれだけの資料があるのだということを示すことによってぼくにその不勉強を痛感せしめたわけである。

緒方が躍進した左派社会党の議席数を計算しながら動いていたことについては、まったく、その通りであろうと思う。そして、ぼくが鈴木を中心に描こうとするあまり、個々の政治過程の記述について至らなかったことも、その通りである。しかし、あえて反論させていただくならば、「左派社会党の動向が政治的に大きな意味を有したこと」を明らかにしようとされたこの論文において、実は左派社会党の動向は明らかにされていないのではないか。左派社会党の意義と小宮先生がおっしゃっているのは、単にその持っていた議席数が(その大きさゆえに)外部からの票読みの対象になったというに過ぎないのではないかということである。

この、いかにも稚拙で、些細な反論に対して、小宮先生は寛大に、しかし平明にお答えくださり、つまるところ、左派社会党について分析するには内部のダイナミズムを明らかにする資料がなく、それは難しい、しかし、自民党側の資料を用いてさえ、これだけ左派社会党の存在意義があることを描くことができる、自分が示したかったのはそういうことだ、とおっしゃっていた。また同時に、この論文は社会党研究者を叱咤するものでもあるのだということであった。これもまた非常にまっとうなお答えであって、これには反論のしようもない。結局、この首班指名選挙における政治過程においてこの研究を凌駕しようとするならば、社会党内での新たな資料を発掘して、そこで鳩山ないし緒方と左派社会党の間に行われていた交渉の内実を(それが存在するかどうかも不明だが)明らかにするしかないのだろう。

こうして、自民党研究のプロフェッショナルたる小宮先生にはまったく太刀打ちができなかったわけであるが、しかし、ぼくのような若造とこのような議論をしてくださる先生を持てたことには本当に感謝しなければならないと思う。また、注で明示などはされていないとはいえ、拙著をまがいなりにも反論(というよりは教示であるが)の対象としていただいたこと自体ありがたいことで、とりあえず「このような論文を引き出したことは拙著が少しは意義を持ったことの証左ではないか」とか、超楽観的な見方をすることにして、今日はまた研究に戻ろう。
あ、ついでに付け加えておくならば、上の記述より明らかなように、拙著の記述が小宮先生の論文によって否定、反論されたというわけではない。その政治過程の説明として、拙著の解釈以上に精密な研究が現れたということである。このエントリで書きたかったことは、書籍を刊行した者として、その後の研究動向も可能な限り抑えておくことは免れえず、同時にその研究の発展もできる限り読者に周知する責任があると考えるがゆえに、新たな、そしてはるかに精緻な研究の出現をこの場で明らかにしておきたかったということに止まるわけである。

※なお、『鈴木茂三郎』には小宮先生他にご指摘いただいた致命的な誤りがいくつかあり、時間ができたら正誤表をホームページに掲載する予定(というより、ほとんどこのことのためにホームページをつくったようなものなのだ)。本当に自分の不明を恥じる日々である。

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